
その日、土曜の午後。
買い物の帰りに、ひとりでカフェに入った。
大きな紙袋を抱えて歩き疲れ、少し休みたかっただけ。
席を探していると、窓際に座る横顔が目に入った。
「…〇〇くん?」
気づけば声をかけていた。
高校の同級生。部活も違ったし、そこまで親しかったわけじゃない。
でも、不思議とその名前はすぐに口から出てきた。
彼が顔を上げて、少し驚いたように笑った瞬間、胸が跳ねた。
「久しぶりだね」
そう言いながら向かいに座った私の目の前にいたのは、あの頃の面影を残しつつも、すっかり大人の男性になった彼だった。
あの頃、私はただの女子高生で、恋愛も不器用だった。
でも今は結婚して、家庭もある。
当たり前に「人妻」としての立場がある。
それなのに、昔の同級生と目を合わせているだけで、
心の奥が少し熱を帯びていくのを感じた。
「結婚したんだ」
そう伝えると、自然と左手の指輪に触れてしまう。
わざわざ強調する必要もなかったのに。
「旦那さん、どんな人?」と聞かれたとき、答えに少し詰まった。
「真面目な人。優しいけど…ちょっと淡白かな」
冗談めかして笑ったけれど、その言葉の裏に、
自分でも気づきたくなかった本音が混ざっていた。
家庭は平和だ。問題なんてない。
でも、女として見られていない気がすることがある。
そんな心の隙間を、どうして彼の前でだけ言葉にしてしまったのか。
自分でも不思議だった。
彼が真剣な眼差しでうなずくたびに、
「もっと話したい」と思ってしまう自分がいた。
「時間、大丈夫?」と聞かれたとき、
私は少しだけ視線をそらしながら答えた。
「…もう少しだけ、大丈夫」
その言葉がどんなふうに聞こえるか、わかっていた。
でも、止められなかった。
駅までの道を並んで歩く。
距離は一定。でも、手が触れそうなくらい近い。
触れなかったからこそ、逆に意識してしまう。
別れ際、感謝の言葉を伝えながら、
ほんの一瞬、彼の腕に手を添えた。
握ったわけじゃない。
それだけで、すぐに離した。
でも、その一瞬の“触れた感覚”が、
今も指先に残っている。
家に戻り、買ってきた食材を冷蔵庫に入れながら、
私はさっきの会話を何度も思い出していた。
コーヒーを飲む彼の横顔。
真剣に話を聞いてくれる眼差し。
昔よりも落ち着いた声。
そして、別れ際に見せてくれた、少し名残惜しそうな表情。
——不倫なんてしてはいけない。
——ただの偶然の再会、それだけ。
理性はそう繰り返す。
でも、女としての心は、
「また会いたい」と密かに呟いている。
スマホには、交換したばかりの彼の連絡先が残っている。
タップすれば、すぐに繋がる距離。
押さない。押してはいけない。
そう思いながらも、画面を見つめる時間が長くなる。
あの午後は、確かに“不倫未満”だった。
でも、私にとっては——日常の中で久しぶりに心が熱を帯びた時間だった。